はじめに
こうざき海水浴場は運営を始めて40年を超えましたが、大分県の海水浴場の中ではもっとも新しい海水浴場でしょう。
1960年代後半までは、西隣に大分県最大の日吉原海水浴場が、東方に大志生木海水浴場があり、その間に存在する神崎海岸は夏場に地元の子供たちが泳ぐだけの、それは静かな海岸でした。
1970年代に入ると、日吉原海岸が大分新産業都市計画で、大分県の手で埋め立てられ、県下最大の海水浴場が消滅してしまいました。
それから10年後、神崎の青年有志が地域おこしのために、海水浴場を作ろうと立ち上がり、竹やぶを切り開き土を入れて駐車場とし、古材を利用してトイレやシャワー室を立てました。
その後、行政の手で今日の施設が整い、シーズン中1万人の方々が利用してくれる海水浴場に成長して今日に至っています。
運営は神崎の自治会で行っており、収益金は海水浴場の整備、地域づくりや 地域福祉の活動の財源となっています。
神崎の海岸は夏だけでなく、1年を通して楽しむことができます。
昨年の秋はキスが入れ食いで、毎日100人の釣り人が押しかけました。
今年は少なかったのですが、初春にはワカメがあがってきます。
初夏には浜大根、小松宵草、浜エンドウ、浜昼顔が一斉に咲き始めるのです。五月の連休ごろからが見ごろです。
夏場にかけては天草が運ばれてきます。
さて、このように穏やかで自然いっぱいの神崎の海や海岸は、35年前に一大転機を迎えることとなったのです。
海亀がやって来た
神崎の海岸や海の一大転機とその変遷をお話しする前に、もう暫く神崎の海の自己紹介を続けましょう。
海水浴場の運営をはじめて数年後のことでした。2匹の海亀がやってきて産卵をしたのです。80数匹の子亀が砂から這い出して海へと帰って行くの を地区の子供たちと見送ることができました。しかし他の1匹の卵は、産卵時期が遅かったのでしょう孵化しないま までした。
年寄りの話では、1940年代頃までは毎年のように産卵していたようです。
神崎海岸で生まれた子亀はすでに20歳。今年は帰ってくるかと毎年待ち続けていますがいまだに姿を現しません。
関あじ、関さば
関あじ、関さばはすっかり全国ブランドとなりました。もちろん魚自信の実力によるものですが、漁協の努力と行政(当時佐賀関町)の支援も並大抵のものではありませんでした。
もともと大分、別府では「関もの」と呼ばれ市民の間で高い評価を得てはいました。 しかし、そのなかに関さばは入っていませんでした。痛みやすいことと、さばの刺身が世間ではそれほど広まっていなかったためです。
「関の一本づり」と呼ばれている漁法であじさばは釣れますが、かつてさばは漁師にとって厄介者で、沖から帰ってくると近所に貰ってくれと配っていたそうです。そのさばが今では関あじを越える評価を受けているのですから。そして地元の者は簡単にさばを口にすることができなくなってしまいました。
「関もの」は鯛、イサキ(地元でハンサコ)、ぶりなどがありますが関あじ・関さばの陰に隠れてしまっています。しかし、その実力は関あじ・関さばに引けをとりません。
「関もの」のふるさとである神崎の海
関あじ、関さばが格別に美味である理由に、その漁場である豊後水道の環境があげられます。九州と四国に挟まった狭い海峡を、川のように流れる海流に揉まれて生活するから筋肉が発達し、他にないコリコリ感、プチプチ感が作られるのだと言われています。
「関もの」の味の研究はこの物語のテーマではないので漁協のホームページに譲ります。 関あじ・関さば美味しさの秘密は?
さて神崎の海には、海岸から2km沖に「馬場の瀬」をはじめとして、数々の瀬が存在しています。
「瀬」とは海底のなかで盛り上がっている山や丘の地形を言います。
水面に近い「瀬」には、太陽光が十分に降り注ぎ、陸上の草木のように海藻が繁茂しています。その繁茂している海藻の林を「藻場(もば)」といいます。
藻場の藻や岩に海の魚たちは卵を産み付けます。そして、幼稚魚の間はプランクトンが豊富な海藻の森の中で敵から身を守り次第に成長していくのです。
すなわち、藻場は海の魚たちが産卵する産院であり、幼稚魚たちが敵から身を守り生育していく保育所です。
豊後水道は逞しく育った「関もの」の生活の場であり、暖かで太陽光が降り注ぐ豊かな藻場が広がる神崎の海は「関もの」たちのふるさとなのです。
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